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熊野古道を歩く #1

 テーブルに並んだビールが、勢いよく消費されてゆく。

 すっかり酔いが回った僕は、頬杖をつきながら枝豆をつまみ、それを黄金の炭酸水で次々と流し込む。「すみません、もう一杯」

 ゴールデンウィークを直前に控えた、仕事終わりの夜だった。いつもの居酒屋「ごん太」のカウンターには、ネクタイを緩め、シャツの袖をまくりあげたサラリーマン風の男たちが並ぶ。店員たちはテキパキと動き、注文を伝える威勢のよい声が店内に響いていた。

 「連休、どこか行かないか」友人Sが言った。

 回らない頭でしばらく考える。

「——熊野古道、かな」

 Sは背もたれに預けていた体を起こし、人差し指を立てながら僕にぐいと近づいた。「それ!」

 僕はかねてから、いつか熊野古道を旅してみたいと願っていたのである。

「それに俺たちには、”禊ぎ”が必要だろう?」

 ビールに唐揚げに枝豆にとこれだけ煩悩に囲まれながら禊ぎも何もないのだが、Sの言う禊ぎについて、思い当たる節があった。

 僕らはそろって、バツイチだ。

 僕は数年前に、Sは離婚調停中。

 この経験が二人の絆を強めていることは間違いない。三日後にはSから計画書が届き、僕は旅の準備に追われたのである。

 当日は雨——いや、嵐だった。サラリーマンの貴重な長期休暇を、天候に邪魔されてなるものか。風雨に打たれながら熊野本宮大社を出発し、小雲取越え・大雲取越えを歩き、那智大社へと踏破したことは今でも鮮明に覚えている。ボロ雑巾のようになりながら、ようやくたどり着いた那智で食べたうどんは、間違いなく、人生でもっとも美味いうどんである。僕がまだ30歳になったばかりのころの、思い出深い旅だった。

 熊野詣での甲斐あって、良縁に恵まれた僕は今、懐かしい思い出を胸に妻と熊野本宮大社を散策している。主祭神は、家都美御子大神(けつみみこのおおかみ)、拝殿のそばには八咫烏(やたがらす)が祭られている。日本神話において、神武天皇を導いた三本足のカラス——熊野のシンボルだ。

紀伊田辺名物・あがら丼

▲2019年当時、改装中の紀伊田辺駅

 大阪を出発し、紀伊田辺に到着したのはお昼をまわったころだった。観光前の腹ごしらえに、ぜひ食べたいものがある。

 名物の「あがら丼」だ。

 あがら丼は地元の食材を使った丼ぶりの総称である。あがら丼の”あがら”とは、地域の言葉で”わたし達の”という意味だ。

 向かった先は「宝来寿司」。地元の常連でにぎわう寿司屋である。

▲漬けカツオとシラスのあがら丼

 宝来寿司では「漬けカツオとシラス丼」の他、太刀魚や、太刀魚天ぷらのあがら丼がメニューに並ぶ。あがら丼に、瓶ビールをつけて1,500円。お腹も膨れてほろ酔い気分になり、すでにご機嫌である。

▲紀伊田辺駅からバスで近露王子へ向かう

 近露王子のバス停には、「いろり庵」のおかみさんが車で迎えに来てくれた。いろり庵は一日ひと組限定の宿で、近露王子と継桜王子の中間にある。熊野古道のすぐ脇の高台にあり、そこからは紀州の山々を見渡せ、条件がそろえば雲海も観られるのだそうだ。毎日この景色を望める中辺路の人々をうらやましく思い「住みたいなぁ」と思わず独り言がこぼれた。

一日ひと組限定の宿「いろり庵」

 座敷にはいろりがあり、そこで宿のご主人がオリジナルのお茶で歓迎してくれた。なんでもこの地域の家々は大なり小なり茶畑を持ち、自家製の「音無茶(おとなしちゃ)」を作るのだそうだ。家庭で消費するだけの、小さな茶畑から収穫・焙煎したお茶は、市場に出回ることはない。

 通常、収穫した茶葉は蒸して加工するが、音無茶は大鍋で炒るのだそうだ。炒る時間や温度の違いが家ごとの味となり、いろり庵のお茶は、2〜3時間かけてじっくりと炒られる。お茶の旨味を引き出しながらも緑茶のような渋みはなく、麦茶やほうじ茶のように、さっぱりと飲める味わいだ。

 近露温泉「ひすいの湯」の後は、お楽しみの夕食である。

 フキやゼンマイのおひたしに始まり、イタドリの和え物にたけのこの煮物、鹿肉の天ぷら、熊野牛のすき焼き、〆には辛み大根ソーメンと、盛りだくさんだ。

「食材で、買っているものはほとんどないんです」

 おかみさんが話してくれた。しかし、目の前には和歌山の旬の食材を使った料理がいくつも並んでいるが——。

「家の周りをぐるっと歩けば山菜が手に入り、鹿肉は近所の猟師さんから分けてもらい、大根は、私のおじいさんが作っているんです」

「うまい商売やなぁと、近所の人に言われます」

 僕は大阪市内で暮らしている。大阪には日本中のモノが集まると言っても過言ではなく、金さえ払えば手に入らないモノなどないだろう。

 しかし中辺路での暮らしを目の当たりにすると「豊かさって何なんだろう」と改めて考えさせられた。

 周辺の、ほとんどの民家には煙突が設置され、暖房には薪ストーブが使われる。薪は近隣の山で手に入る再生可能エネルギーだ。自然の理にかなった生活である。

 人生は金だけじゃないよなぁと思いながらも、経済活動を忘れて暮らすには、忘れられるぐらいの金が必要だという現実——。まだまだ、人生模索中である。

 翌朝、ニワトリの鳴き声で目が覚めた。窓からはうっすらと明かりが差し込み、遠くに望む紀伊山地の山々には幻想的な霧がかかる。

 いつもなら「OK Google、ニュースを再生して」と朝のルーティンをこなすところだが、今日は野暮なことはしない。顔を洗いながら外の鳥のさえずりに耳を傾けているうちに、台所からお茶のいい香りが漂ってきた。

 茶粥は、和歌山県の名物だ。

 お米の状態から茶葉と一緒にやわらかく炊きあげる。いろり庵のそれはお茶のみで味付けしたシンプルなものだが、地域によって味付けが異なり、塩をふる場合もあるという。

 いろり庵では塩をふらない代わりに、梅干しや鉄火味噌をおかずにいただく。濃いめのおかずは相性がよく、だし巻きやアジの干物とともに、お鍋にいっぱいの茶粥をたいらげてしまった。おかみさんとご主人に見送られ、世界遺産を歩き出した。

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